Category: town & city

31 3月 2012

書体随想

Posted by fische on 03/31 at 02:39 PM
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その町へゆくと、忘れていなければそこを通りその看板を見る。書体には1920年代の雰囲気があるが、戦後のものだろうと思いながら。

古い写真で、鳴海の貝塚に建てられていた標識に、強い装飾の書体が使われているのを意外な感じで見たことがある。“考古学の遺跡に?!この書体?!”と不意を突かれたような感じだった。昭和2年の遺跡発見から間もない頃の撮影であろう。観光ための施設がそこにあったと聞いたことはないが、その町では名所旧跡すなわち観光地的な場所だったのかもしれない。これに比べるとクリーニング店の書体はおとなしく、時代の下ることが想像されたのである。

思えば書体に煩わされてきた。古くは書道、意識的になったのは高校生の頃の孔版印刷において。その技術向上をうたい、明朝体やゴシック体を手書きで成した。鉄筆と鉄板、ろう原紙、修正液。ボールペン原紙というのも現れた。友人の手になる冊子はよくできていると当時思ったが、後に見たプロのそれ *1 *2 には趣があった。

大学でブランケット判の新聞を作っていたとき、入稿のため訪れた町工場で、工員が活字を拾い組んでいるところを見た。システム!--両腕を伸ばし広げた範囲の孔版印刷とは異次元の別世界がそこにあった。

1980年代になり、職場の和文タイプを一瞬経験するが、じきに専用機やパソコンソフトでワードプロセッサが登場し、書体は造作ないものとなる。いわゆる「民主化」であった。いま、手書きの書体を愛でる言辞に接することがあるが、この「民主化」と表裏一体の自家撞着である。

2010年5月、クリーニング店はなくなっていた。

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24 1月 2012

墓所のアーキテクチャ

Posted by fische on 01/24 at 12:08 AM
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人家に囲まれた墓所。もとよりそうだったのか、集落の外に設けられたものがいつしかこうなったのか・・・。昨年12月、不意に此処に出た。

砂地は砂堆であることによるのだろうか。国道からは幾分のぼってきたため、確かに微高地であった。そしてやはり、道筋の街から離れて始まったのかもしれない。

砂地に見えないグリッドがあり、その輪郭を、石、煉瓦、瓦、そして寄せ集めた砂で、丁寧になぞっているかのようだ。美しい。かくして墓域は横に拡張する。

墓標は上へと不揃いに伸びかつ傾き、しかし整然と北北西を見る。斜めに西日を背に受けて。

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22 12月 2011

木造三階建て

Posted by fische on 12/22 at 03:05 AM
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ことしの夏前、知人の車に載ってここを通ったとき、この建物に思わず感嘆の声をあげた(「知多逍遙遊」)。木造三階建て! 「いまでも使っているからすごい」と知人は言う。確かにそう。

過日、通った際にしばし車を停めて眺めてみた。

大須の木造三階建ては装いを変えて、その価値を減じた観があるが(「「名古屋で唯一の「木造3階建て」」」)、ここはまだ生きている。ネット検索はしていないが、言及しているサイトは多いと思う。市教委、県教委は、保存活用の対象として注意しているだろうか。

そして、河村たかし氏が大須の木造三階建てに注意したのは、名古屋城天守閣を木造で再建することが念頭にあったからなのだろうと想い到る。引きの少ない大須では実感しなかったが、ここでそれを思った次第。

神霊のよりつく山車よりも高い、あるいはそれと並ぶ高さの建物なのだ。

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5 12月 2011

「みんな若く美しかった」

Posted by fische on 12/05 at 10:06 PM
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ある情景を想像し、

君の声が 聞こえたような気がして
振り返ってみる 公園で
誰もいない 風が吹く
ぼくを 置いてゆく
(「みんな若く美しかった」)

と歌ったあとで、きょうその場所に行ってみた。
公園は整備されてその様を変えたが、中心に建つ彰徳碑は往時のままであった。
木々の長い長い影が、40年前へとのびているようだった。彼の声は聞こえた?

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26 10月 2011

吉根の思想

Posted by fische on 10/26 at 02:00 AM
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「吉根」と書いて「きっこ」と読む。

昨晩、守山区の吉根小学校に行った。1980年代前半は毎週のように通ったこの地だが、同後半以降、県道多治見田代町線西側の吉根にはゆくことがなかった。そのあいだに、一面水田だったこの場所は、埋め立てられて新興の住宅地に変わった。人口増を見込んで、2007年4月に新設されたのが同校である。

講堂の緞帳は、後景に富士ケ嶺の山並みと庄内川、前景の上半に白鳩、下半に桔梗の花を散らしている。桔梗は吉根の地名の由来と言われているからだろう。人家が見られないようすから察して、区画整理前の吉根を西側から見た図で、いまは亡き実景を小学校の緞帳の絵に残し、児童に伝えていこうという意図を読んだ。

それにしても寂しい絵である。未来が感じられない。繰り返すが、富士ケ嶺の山並みと庄内川をともにする実景は過去のものである。いったい誰が、それら景色をして未来を見遣るだろうか。眺望して楽しむことすらいまではできない。平和のシンボルを意味して白鳩が配されたのであれば、辛うじてここに未来を感じるが、せいぜい現在どまりの未来と言うべきである。平和は過去の戦争に繋がれている。そして平和の白鳩は、この絵の中ではもっとも抽象化の作用を必要とする高度な要素である。

ところで、この絵の前でおこなわれていたのは、9月の台風15号で被災した地区住民向けの、行政による集いであった。行政の誰もが、今回の事態を理解していないようすがよくわかった。理解していないから答えようがないにもかかわらず答えているために起きる思考停止、つまり行政の「無謬」を言う以外に言うべきことを持たないようすが戯画的であった。そもそも制度設計が誤っているのだから、その上で無謬を説くことは誤謬と同義である。福島原子力発電所の事故と同じ構造である。

それでも、今後の対策が強く求められたのは言うまでもないが、緞帳の絵にはなかった吉根の未来を、庄内川が開いたのかもしれないと思った。過去と現在と未来をつなぐべくして、庄内川は氾濫して決起したのではないか。かくして緞帳の絵も、庄内川において吉根の未来を約したのではないか。

庄内川の氾濫は訪れた。やがて山津波も訪れるだろう。そのとき緞帳の絵は、富士ケ嶺の山並みと庄内川もろともの地殻から未来を指し示すことになる。吉根は、区画整理以前の吉根に戻りたがっているのだろうか。

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