Category: miscellaneous
「その場所」
Posted by fische on 04/08 at 02:57 AM
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もう何年 来ていなかっただろう
借景のあの山は 新緑に萌える
雨上がり 造成の赤土
踏みながら 僕のブーツは 重くなる ああ
踏みながら 僕の胸は じんとなる ああ「その場所」
書体随想
Posted by fische on 03/31 at 02:39 PM
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その町へゆくと、忘れていなければそこを通りその看板を見る。書体には1920年代の雰囲気があるが、戦後のものだろうと思いながら。
古い写真で、鳴海の貝塚に建てられていた標識に、強い装飾の書体が使われているのを意外な感じで見たことがある。“考古学の遺跡に?!この書体?!”と不意を突かれたような感じだった。昭和2年の遺跡発見から間もない頃の撮影であろう。観光ための施設がそこにあったと聞いたことはないが、その町では名所旧跡すなわち観光地的な場所だったのかもしれない。これに比べるとクリーニング店の書体はおとなしく、時代の下ることが想像されたのである。
思えば書体に煩わされてきた。古くは書道、意識的になったのは高校生の頃の孔版印刷において。その技術向上をうたい、明朝体やゴシック体を手書きで成した。鉄筆と鉄板、ろう原紙、修正液。ボールペン原紙というのも現れた。友人の手になる冊子はよくできていると当時思ったが、後に見たプロのそれ *1 *2 には趣があった。
大学でブランケット判の新聞を作っていたとき、入稿のため訪れた町工場で、工員が活字を拾い組んでいるところを見た。システム!--両腕を伸ばし広げた範囲の孔版印刷とは異次元の別世界がそこにあった。
1980年代になり、職場の和文タイプを一瞬経験するが、じきに専用機やパソコンソフトでワードプロセッサが登場し、書体は造作ないものとなる。いわゆる「民主化」であった。いま、手書きの書体を愛でる言辞に接することがあるが、この「民主化」と表裏一体の自家撞着である。
2010年5月、クリーニング店はなくなっていた。
あのクリーニング屋、なくなっている。 http://twitpic.com/1s36ba
— ore nestさん (@ore_nest) 5月 29, 2010
恭賀新禧 2012壬辰年正月
Posted by fische on 01/07 at 06:02 AM
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今年の年賀状は、『国立中央博物館時報』第4~6号(1940年)の表紙カットの図「契丹文字の篆蓋の一部」を改変して使用した。
これは、内蒙古のワールインマンハにある、遼代の陵墓「慶陵」のひとつ道宗の永福陵から出土した宣懿皇后の墓の蓋の拓本(部分)で、碑面の傷の位置関係から全体図の左上角にあたる。
せうそこ
Posted by fische on 11/20 at 12:03 AM
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きょう、激しい雨の中、先生のお墓を探しに八事へゆく。しかし見つからない。お墓参りした記憶、光景はゆめまぼろしだったのか。だとしたら、きょうのわたしは、子どもの頃のように、夢遊病の人である。
そして、先生のお宅はなくなっていた。奥さま、先生のお姉さまもの姿も見えない。
写真の中段あたり、白のネットフェンスに囲われた場所に、先生のおうちが建っていた。それより手前、自動車の停まる場所から植栽を経て一番下の駐車場までは、左側の道路のようになだらかな斜面で、鬱蒼とした木立にツバキがなどがきれいに咲く、このあたりの丘陵の旧の景観を残す場所であった。ここに、あの宝篋印塔の基礎も置かれてあった。
隣家の人に、5年ほど前までのようすを教えていただく。消息(せうそこ)は不明。もうお会いできないのだろう。
TPP雑感
Posted by fische on 11/10 at 02:33 AM
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単純な二項図式だが、以下備忘録として。
日本資本主義論争において、講座派は明治維新で絶対主義天皇制と半封建的地主制が遺ったとし、まずはブルジョア革命によってそれを打倒し、社会主義革命への展開を説いた。これに対して労農派は、ブルジョア革命は明治維新で果たされており、目指されるべきは社会主義革命であると説いた。これは、わが国革命の路線上の問題である。
両者を歴史学で一瞥すると、実に相違著しいスタイルの論文を展開してきた。講座派は常に世界史を参照してこれより日本史を演繹し、労農派は個別具体的なわが国の事象から帰納した。講座派はわが国の現実を批判することから開始し、労農派は現実を肯定することから歩を進めたのである。
「講座派/労農派」の経験を軸に、その前史を眺めると、幕末明治の「開国/攘夷」に注意がうながされる。単純化して言えば「開国」は世界史と親しい講座派に、「攘夷」はその反対の労農派に通じる。
「講座派/労農派」の後史が、現下のTPP問題である。TPP賛成派が表徴する「開国」は、幕末明治の「開国」のアナロジーである。それにしたがえば、TPP賛成派は講座派となり、TPP反対派は労農派となる。
狭義の党派政治の範疇からすれば、講座派は共産党、労農派は社会党、という括りで語られるが、より広義にわが国近代の政治、経済、文化を構造的に規定する二項と考えることができる。文化の領域では、さすがに邦楽と洋楽が対立的に語られることはないが、構造として存在することは誰も否定しないだろう。隣国中国における「洋法/土法」ともパラレルである。この構造は、わが国の、というよりアジアの、と言ってよい。
このように見来るとTPP問題をめぐる現下の状況は、世界史-日本史を貫いてきた構造的問題の再演、再々演と考えられる。いずれに与するかは、「いまここ」の大問題ではあるが、「いまここ」が近代日本であるからには、この構造がTPP問題で死滅することはありえず、事態の推移を分析的に観じてゆきたい。そのうえで思うのは、もっとも講座派的なのは仙石由人かもしれない。
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